形のない足跡

七辻雨鷹(ナナツジウタカ)。マイペースで子供っぽい人のまた別のお話。「ようこそ、カオスへ。」

五.小宮咲季-8732

 講義室を出て階段を下りる。普段は白く色味のない校舎の階段や廊下も色とりどりの装飾がなされている。生徒たちは皆、高揚と期待の混じった予感を共有していた。そわそわした空気が校舎全体に充満している。
 小宮咲季。ほとんど会ったことはなかったが、美冬が話すのをよく聞いた。美冬と同じ写真部に所属していて、休日もよく一緒に出かけていた。親友と言っていいほど親しくしていたはずだ。葬儀のときに泣いていたのを見たが、何も話しかけることができなかったのを覚えている。声を掛けるべきだったのかどうかも、今はもうわからない。その後、何度か顔を合わせる機会があったが、咲季は高校卒業とともに地方大学に進学したため、以来ほとんど会っていない。しかし、咲季は美冬の命日前後、文化祭の日には仏壇に線香をあげに来た。
 2Cの教室は既に引き戸が取り払われ、机や椅子のほとんどと教卓と教壇が運び出されていた。物の少ない教室は妙に広く感じられた。カーテンがないせいか、開け放たれた窓からはいつもより風が入って来る。
「遅い。ほら、こっちの準備はひと段落したから暗室の鍵取ってきて。」
 咲季は黒板にカメラの絵を描きながら言った。咲季はにこりともせず、真雪は緊張を覚える。中身は美冬ではないとはいえ、今は美冬としての役割を果たさなくてはならない。ごめん、すぐ取ってくる、と言って「美冬」は教員室を目指し、再び階段を駆け下りた。この後もまだやることが山ほどあるとも知らずに。

 咲季に言われた写真部での仕事を全て終えた後、「美冬」は更に文化祭運営委員会の手伝いにも呼ばれてしまい、昇降口に降りた時には七時半を回っていた。生徒の大半は帰宅していたが、幾つかの教室はまだ明かりが点いていて、暗い廊下に光の影を落としていた。下がらない気温に熱帯夜の予感を感じる。
 靴を履いて外に出ようとすると、咲季がガラス戸に寄りかかっていた。
「遅い。」
「ごめん、待たせて。」
組んでいた腕を解くと、咲季は振り向きもせずに歩き出した。「美冬」は慌てて咲季を追いかける。こうして並ぶと咲季は真雪より少し背が低い。
「好きで待ってたんだからいいけどさ。あと、準備があるから明日は先行くよ。」
咲季と美冬が一緒に通学していたとは知らなかった。咲季と美冬は普段はそれほど仲が良いように見えないのによく一緒に行動していた。それは咲季のドライな性格のせいだったのだと真雪は気づく。真雪が思っていた以上に二人は親しかったのかもしれない。もしかしたら、咲季ならば何か知っているかもしれないと真雪は思った。「美冬」は深呼吸をしたあと、咲季に尋ねた。
「ねえ。アプリで使ってるパスコードを忘れちゃったんだけど、心当たりない?」
真雪はできるだけ自然な調子で聞いてみたつもりだが、質問自体がどう考えても不自然だ。咲季が怪訝そうな表情を見せると真雪は酷く喉が乾くような心地がしたが、咲季は少しの間を置いて、
「どうして私が知ってるの?  どうせ美冬のことだからケースにメモでも入れてるんじゃないの。」
と答えた。「美冬」は、あ、確かに、ありがとー、と返して適当に誤魔化す。その様子を見て、咲季は呆れたような表情を見せたが、真雪はぐっしょりと水に濡れたときのような落ち着かない気持ちのままだった。
 咲季とは時折会話をしながら歩き、渋谷で別れた。咲季はこれが美冬と言葉を交わす最後の機会になることを知らない。そして、その「美冬」は美冬ではない。そう思うと別れるときに鼻の奥がつんと痛くなった。

四.現存-8732

 美冬のやり残したこととは一体何なのだろう。手掛かりと呼べるものは手元のスマートフォン以外に何もない。他人のスマートフォンを覗くのは躊躇われるが、美冬はわざわざパスコードを教えたのだから構わないだろう。スマートフォンにはメモやLINEなど生活の記録が残されているから、何か分かるかもしれない。意を決した真雪が次に開いたのはカメラロールだった。
 ここ数日は文化祭関係のプリントや板書の写真が多い。しばらくスクロールすると、友だちと出かけたディズニーランドでの写真、旅行で行った北海道での写真、家族の集合写真などが見つかった。もう見ることのできない写真が数多くあった。美冬のスマートフォンは、事故の際に大破してしまったのだ。
胸の奥をぎゅっと掴まれたような感じがして、苦しくなった。感情が露わになるのを抑えるように、真雪は膝を抱える。思い出が幾つも蘇り、頭の中に洪水のように押し寄せた。それぞれが今も鮮やかな色を咲かせる。揺さぶられた感情が行き場なく渦巻く。姉が確かに生きていた時間があったのだ。手掛かりになりそうなものは特に無かったが、真雪はLINEを使って写真を自分宛に送った。
 次に開いたのはカメラロールの隣にあったメモだった。メモ自体の数はそれほど多くない。真雪は一つ一つを開いて見ることにした。ToDoリスト、発表授業の原稿、本の題名の羅列……手掛かりになりそうなものは何もない。
 ホーム画面に戻ると、もう一つメモアプリがあった。黒っぽいアイコンをタップして開く。もしかしたらメモの大半はこちらにあるのかもしれない。手がかりがあるかもしれないと真雪は期待したが、四桁のパスコードが立ちはだかった。試しに「8732」と入れてみるがあっけなく阻まれる。本人や家族の誕生日、生まれた年、定番の「1111」や「1234」……色々試すがどれも違う。他にどんな数字が考えられるだろうか。
 バイブレーションとともに通知が来て真雪は手を止めた。〈咲季〉からLINEが来ていた。
〈まだ来ないの?〉
〈場所なら2Cだよ。〉
 今日は文化祭の前日。あまりスマートフォンばかりを見ている時間もない。部活動関係の準備が始まっていた。美冬の所属する写真部のブースの準備をしなくてはならないのだ。
 スマートフォンをポケットに戻し、「美冬」は立ち上がった。

三.花本美冬-8732

 「花本……おい、花本。」
まだぼんやりとしたまま目を開けると、男子生徒が立っていた。日に焼けた肌と短く切った髪はいかにも活発そうな感じがする。額に滲んだ汗を拭い、彼は無言で何かを突き出した。ミルク味のアイスバーだ。戸惑い、受け取り損ねていると、男子生徒は困ったように言った。
「頑張ってるし、俺の分の仕事もやってくれたって聞いたからお礼に。好きなんだろ、これ。」
ありがとう、と答えて受け取る。冷たい感触が火照った手のひらに広がった。袋を開け、溶けかかったアイスを口に入れる。甘く柔らかな風味が全身の疲労を癒す。
 段々と意識が明瞭になって思考が纏まってきた。あの男子生徒は誰なのだろう。クラスメイトのようだが、知らない顔だった。誰かの仕事を引き受けてこなした覚えもない。
 どれくらいの間眠っていたのだろうか。 時間を確認しようと、スカートのポケットを探り、スマートフォンを取り出す。手に触れた感触がいつもと違う。ふと見ると、ケースには薄桃に赤い秋桜が描かれている。握っていたのは姉が使っていたスマートフォンだった。なぜ、姉のスマートフォンがポケットに入っているのだろうか。電源ボタンに触れ、ロック画面で時間を見る。
     15:37 9月12日 金曜日
眠っていたはずなのにほとんど時間が過ぎていない。そのうえ、日付が違っていた。今日は八日のはずだ。文化祭は九日から十一日までなのだから。
 そこまで考えて真雪は凍りついた。九月十二日が金曜日だったのは、三年前、つまり、美冬が亡くなる前日である。まさか、と思いつつも真雪はカレンダーを確認しようとパスコードの解除を試みる。四桁のパスコード。夢で聞いた声が蘇る。
「8732」
 一つ一つ間違えないように数字をタップした。パスコードが解除され、ホーム画面が現れた。カレンダーアプリを探して開くと、二〇一四年九月十二日に丸がついていた。
 途端に目が覚めた。何が起こっているのだろう。タイムスリップ、だろうか。背筋がすぅっと冷たくなり、頭の中が静かになった。冷静に考えを巡らせる。これは夢なのだろうか。本当にタイムスリップしているのだとして、何のために?
「どうかわたしのやり残したことを叶えて。」
姉の言葉が聞こえてくる。もしかしたら、あの夢には何か意味があるのかもしれない。真雪は先ほど見た夢を頭の中で再生した。普段は夢を見ても覚えていないことが多いが、ただの夢にしては鮮明に思い出せた。
 真雪は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。おそらく自分は姉のやり残したことを果たさなければならないのだ。そのためにここにいるのだ。
 それから、カメラアプリを起動し、内カメラに切り替えた。
 白いブラウスに赤いリボン、ポニーテールに青いヘアピン。
 そこにいたのは美冬だった。

二.交点-8732

 夢を見た。
 学校の5階の廊下を歩いていた。どこへ行くのかはわからない。しかし、行かなければならないという気持ちがあった。角のエレベーターホールの前、窓のそばに美冬が立っていた。白い無地のワンピースを着て、胸元まである髪を下ろしている。
「真雪、お願いがあるの。」
そう言うと美冬は寂しそうに微笑んだ。黒髪がさらりと前にかかる。
「お姉ちゃん……。何処に行ってたの。」
真雪は廊下を駆け寄ろうとしたが、走っても走っても一定以上近づくことができない。二人の間に白い廊下が延々と続いている。走っているはずなのに足の感覚がわからなくなりそうだ。真雪の必死な様子を見て、美冬は曖昧に息を吸い込んで言った。
「思い出して。私は、もう、生きてはいない。」
突き放されたような気がして、真雪は立ち止まった。姉との距離は依然変わらず、白い廊下が伸びている。
 そうか、これは夢なのか、と真雪は思った。それでも、少しでいい、姉と話がしたい。真雪は幽霊をあまり信じないが、夢で姉が会いに来てくれたのだと心のどこかで期待してしまうのは仕方がない。
 力なく座り込んだ真雪に、美冬はごめんね、と小さく呟いた。
「お願いがあるの。どうか、わたしのやり残したことを叶えて。」
美冬の声は決して大きくないが、確かに体の中に響く。真雪は美冬をじっと見つめた。
「それは何? 教えて。」
真雪は必死に尋ねた。叫ぶような声が廊下に反響する。
「わたしは……ったかったの……って……。……ごめん、やっぱり言えないみたい。神様と約束したから。きっと真雪なら分かるよ。」
美冬の言った何かはところどころ言葉にならないぼんやりとした音になってしまい、聞き取ることができなかった。これでは何をしたら良いのか分からない。何のことなの、と言おうとした時、後ろからすっと引っ張られるような感覚がした。真雪は意識を留めようと抗ったが、すぐに景色が遠ざかり、消えた。
「パスコードは8732。」
美冬は最後にそう言った。

一.花本真雪-8732

 壁紙の白が明るくなるのを眺めていた。目はとうに覚めている。夜明けと共に目が覚める真雪の朝は早い。家の中は物音一つしないが、外からは新聞屋のエンジン音が聞こえていた。いつもならすぐに起き上がって着替えるところだが、そういう気分でもなかった。今日はいつもとは違う。
 しばらくすると誰かが階段を降りる音が聞こえた。母だろうか。真雪はおもむろに布団を除けて立ち上がり、窓を開けた。まだ幾らか涼しい風が部屋に入ってくる。
 白いブラウスに袖を通す。スマートフォンで気温を確認して、スカートをウエストの少し上で留める。今日も暑くなるらしい。襟に赤いリボンを結んで整える。髪を梳かして結い、桃色のビーズがついたピンで前髪を留めた。
 部屋を出てリビングに降りると、母が台所に立っていた。
「おはよう。」
「おはよう。今日はいつもより遅いね。」
やかんに火を入れながら母が言う。弾けるような音がして、青い炎がゆらりと立ち上がった。
「うん、今日は授業が午前中だけだから予習が少ないの。」
 それから、真雪は仏壇に向き直った。鈴を叩くと周囲の空気が張り詰めた。手を合わせてから写真立ての中の笑顔に微笑みかける。
 白いブラウス、赤いリボン、ポニーテールに水色のヘアピン。桜の樹の下で笑っている。
「おはよう、お姉ちゃん。」

 午後から始まった文化祭のクラス準備はもうほとんど終わりかけていた。
 映画のタイトルが大きく書かれた色付き模造紙を壁に貼り終えて、真雪も一息ついた。忙しなく動いていたクラスメイトも先ほどよりは減ったように思う。そろそろみんな部活の方の準備に移るのだろう。時計の針は三時を指していた。講義室の一番後ろに座ってスクリーンを眺めて真雪は満足する。教室から椅子や机を運び出したり、脚立に上ったり、一通り仕事を終えて足元から疲れが広がってきた。
 段々と意識が内面に向いてくる。今日やり終えたことを思い出したり、この後することを考えたりするうち、真雪は姉のことを思い出していた。
 真雪の三つ上の姉、美冬が亡くなったのは三年前の文化祭の朝だった。美冬は学校の前の横断歩道で信号を無視したトラックにはねられた。即死だったという。週末の朝早く、運転手はとても疲れていた。
 それから三年。悲しい思い出があるからという両親の反対を押し切って、真雪は姉と同じ高校に進学した。せめてもの親孝行は、校門の前の横断歩道を使わないことだ。
 真雪は今まさに美冬が迎えることのできなかった高校三年生の文化祭を迎えようとしている。真雪は美冬を追い抜いてしまうのだ。今まで辿ってきた足跡はもうすぐ途切れる。美冬が亡くなった後、受験の半年前に志望校を変えてまで、真雪が姉と同じ高校を選んだのは、姉の足跡を辿るためだ。そして、その先の、姉が歩くことのなかった場所を歩くためだ。そして、大学も姉が志望していた大学に進むつもりだ。それほど、真雪にとって美冬の存在は大きい。
 あと少しだ。
 真雪は全身を包んでいく心地よい眠気に身を任せた。

8732をカクヨムで

26日(水)から2日に一度の更新で、小説投稿サイト「カクヨム」にて、小説『8732』の連載をします!

読んでくれると嬉しいです。

よろしくお願いします。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883700620

クリスマス号 巻頭言

街は落ち着かない子どものようで
人々は皆浮き足立って
あまりに幸せそうだから
きっと僕も笑っている
きっとあなたも

何でもない凍てつく冬の日が
誰かが幸せになる日になって
もう2000年以上経つ
神も救世主も僕はあまり信じないが
今日くらいは感謝しても良いんじゃないか

今日だけは世界が平和であれと願う人々
願うだけで何もできやしないが
あなたよ 幸せであれ
それだけは僕にも叶えられるはずだ

メリークリスマス
囁いたツバメが飛び去るまでは
祈るより先に行動するべきだ








最近見たもの読んだもの聞いたものにかなり影響されたように思います。
特に、さだまさしの「遥かなるクリスマス」。

文化祭号 巻頭言

黒歴史は鮮度が高いうちに積極的に晒していく所存です。一足先にこちらにアップします。

言葉の色がぶれていて、その上深夜テンションそのままなので、これを書いたときの自分を3発ほど殴りたい気持ちで一杯です。



巻頭言​

言葉はただの言葉だ。
意味を持つ音の連なり。

それがあるとき力を持つのだ。
その響きの奥に見えないものを宿して
その文字の向こうに知らない景色を見せる。
その言葉はわたしと誰かに灯る。

震えるのは本当に寒暖差の所為なのか。
感じたものの温度が冷めないように
醒めないように
私を呼んだ言葉で
今度は私が貴方を呼ぶ。
「ようこそ、カオスへ。」



QOOLANDというバンドの『反吐と悪口』という曲の歌詞にある「俺と誰かに灯るなら」という表現にヒントを得て「灯る」という言葉を使いました。


持っている部誌の巻頭言を見返したら、先輩方のセンスある言葉が並んでいました。わたしもそれを目指していたはずだったのですが。



七辻雨鷹

Business

最近(3月)の作品です。手直ししたけどあまり納得いかず……。OLにならないと書けないのかもしれないですね。何とか良くしたいのでアドバイスをお願いします!



 夜の街は原色のネオンサインが溢れ、影はその色を一層深くしていた。日付が変わるまでにそれほど時間はない。既に人通りは減り始めている。
 わたしはとうに人気のない会社を出て、バス停へ向かった。街灯が路面に白い光を叩きつけていた。辺りには自分の足音だけが響く。国道の向かい側のバス停へ行こうと信号を待ちをしていたときバスが目の前を通り過ぎた。時計に目をやる。11:23。たった今逃したのが、駅への最終バスだったらしい。駅まで歩けば30分はかかる。今から急げば乗り換えの駅までは行けるかもしれないが、乗り換え先の路線の終電に間に合うかどうかはわからない。途方に暮れて一人、ぼんやりと向かいの歩道の植え込みを見つめる。
 無茶な仕事のせいでこんな時間になってしまった。次から次へと仕事が舞い込み、息をつく間もない。ようやくほっとするのは仕事が終わった後で、疲れ果てて何もできない。
上司が来たのは、昼過ぎに指示された資料を定時を過ぎてからやっと作り終えたころだった。
「指示したものと違う。」
上司がそう言って指したパソコンのモニターにはつい先ほどできあがったばかりのグラフがあった。
「データが古い。これで作り直すように。」
渡された紙の束には数字が延々と連なっていた。明日の朝までに、とだけいって彼は帰った。デジタルデータで渡してくれないのもいつものことだ。何も考えず、考えないように数字を打ち込む。
 嫌がらせにはとうに慣れたつもりでいる。必要とされていないことなど、嫌われていることなどとうの昔に気づいている。下らない揚げ足取り、一人だけ呼ばれない飲み会、お局さんからの悪口。全部、全部日常だ。既視感さえ覚える毎日に非日常への出口などない。
 気づけば駅とも会社とも違う方へ歩きだしていた。あてもなくネオンサインから遠ざかっていく。時計を見ると日付が変わっていた。出勤までの時間を考えると家に帰っても休めそうにない。
 生きるために働くのか、働くために生きるのか。
 いつか見かけたそんな言葉が脳裏をよぎる。働けば生きている。生きていれば働く。何のために?
 そのまま知らない団地の階段を上る。
 誰に嫌われても、誰にも必要とされなくても生きていくつもりだった。都会に出るときに心に決めたはずだった。でも、いつからだろう、自分で自分が嫌いになった。お金も仕事も生活も、もう全部欲しくない。自分には何もない。要らなくなった。
 生きる価値って、何だっけ。
 階段の途中の鍵のついた金属の柵を乗り越える。鞄は何処か途中で宙に放った。
 街を見下ろす。暗闇はあくまで暗い。夜の底は深く遠い。追い風が短い髪を揺らした。鼓動が速い。

「ご機嫌如何ですか。」
 後ろから低い、男の声がした。
 振り返ろうとしてよろめく。踏み外した途端に得体の知れない恐怖が意識の表層に浮かび上がった。空間が粘度を持ち、視界がゆっくりと歪む。
 それから、わたしの視界の端を黒いものがよぎった。落下していく感覚が消え、恐る恐る目を開けると、夜の闇と同じ色のスーツを着た男が自分を抱えている。男の足下には何もなかった。彼は浮いていたのだ。
「貴方は大事なお客さまだ。死なれては困るのです。」
宙を蹴るとそこに反発する力が働くかのように、男は空中を移動した。それから、わたしを屋上に降ろした。力なく座り込んだわたしに男は続ける。
「貴方は誰かに必要とされたかったのではありませんか?」
頭がぼんやりする。わからない。
「私は最近ビジネスを始めたのですよ。一つ、取引をしませんか。」
「取引……?」
「ええ、私はあなたに『生きる価値』を差し上げます。そのかわり、貴方のものを一つだけ貰います。それとも、死ぬのが怖いという理由だけでいつもの毎日に戻りますか?」
男は私を見下ろしたままさらさらと喋る。聞いていてもさっぱり何のことか分からないが、今更失くすものもない。差し出された契約書に拇印を押して、わたしは男と取引をした。
「では、わたしの指示に従ってください。国道沿いを三十分歩けば大通りに出ます。タクシーを見つけて何が何でも家に帰ってください。」
 この人は何を言っているのだろう、と思った。帰ったところで休む暇などないのに。でも、もう全部どうでもいいのだから、言うとおりにしてみるのもありかもしれない。わたしは鞄を拾い、男の言葉に従って家路を急ぐ。わたしの不法侵入に気付く人はいなかった。通りでもすぐにタクシーが見つかった。
 タクシーから降りて歩いていると、いつの間にか痩せた子猫が後をついてくる。何となく気になって放っておけず、家に連れて帰ることにした。里親が見つかる間だけのつもりで。
 翌日、会社をクビになった私は現在就職活動をしている。猫の引き取り手は見つからない。それどころか猫は懐いて離れない。わたしは自分が要らないけれど、猫にとっては要るらしい。就活は上手くは行かないがせめて猫の餌代くらいは稼がなければ。

彼女が去った屋上で、男は携帯電話を取り出した。
「もしもし。わたしだ。君に仕事が見つかった。明後日****株式会社に行って話をするといい。事務職にありつけるはずだ。・・・・・・ああ、そうだ。対価としてこれから五年間、給与の五パーセントを毎月送金してくれ。不労所得っていうのも悪くないからな。」





生きる価値って何でしょうね? 誰かに必要とされるのは必要なことでしょうか。在っても良いし、無くても良いかな。ぼんやりとそんなことを考えながら書いておりました。少し重くなりすぎた気がします。

遅いクリスマスの話

『島取り』からちょうど1年後に書いた作品です。真夏に真冬の話を書くのは大変でした。おかげでよくわからない作品に仕上がっております。こちらもZ会の交流誌に掲載されたのですが、こんなおかしな作品で良かったのでしょうか……。





 気象庁がトウキョウに十センチの積雪を観測したころ、私は制服の上にコートを着て、マフラーを巻き、普段より少し軽いかばんとお気に入りの傘を持って外へ出かけました。

 いつもより三十分早く出て余裕を持っていくように言われたのに、私は三十分早く出て、公園への寄り道を決めました。家のすぐ近くの公園は白く深く覆われ、いつもよりいくらか落ち着いて見えます。

 雪の上には足跡ひとつなく、辺りは静けさに包まれていました。雪は音もなく降り続けています。一歩踏み出すと深く沈み込んで、私はその下の地面の硬さを知りました。

 カラフルな遊具は一面の白の中で色をのぞかせていて、木々にも雪が積もり、地面にはならされたように均一に積もっています。きれいだな。この景色は知っている気がする。記憶の中に似たものがあるような……。

 こんなに雪が積もったのを見たのは初めてなのに、なぜ知っている気がしているのでしょう。しばし考えて、私は気づきました。

 これは、まるで、クリスマスケーキだ。

 遊具はまるで飾りの果物や、ろうそくや、砂糖菓子に似て、木々は粉砂糖のかかった飾りみたいです。

 私は自分の考えに呆れて、思わず笑みを浮かべていました。確かにこんなに積もった雪は初めてで、すごいと思うにしてもクリスマスケーキみたい、だなんて。年もとっくに明けているのに何を言っているんだろう。

 クリスマスは楽しかったなぁ。……今年は初めてサンタクロースが来なかったっけ。もう、「大人」だと思ったのか、それとも「悪い子」だと思ったのか、どっちだろう。

 ずっと公園に一人たたずみ、そんなことを考えていると、いつの間にか私の肩にも雪が降り積もっていました。ずっとそこに立っていたのです。私も砂糖菓子の一つになってしまうのでは……。ふと、いやな想像が脳裏をよぎりました。

 そのときでした。

「メリークリスマス。」

ふいに耳元でささやかれたような気がしました。振り向いても誰もいません。なんだか空恐ろしくなって、早くこの場を離れようと思いました。雪に埋まって足がうまく動きません。しゃん、しゃん……とかすかに鈴の音が聞こえていました。

 私は駅へ走りました。早く早く雪のないところへ、人のいるところへ。ビルは白くなって、看板がカラフルな飾りになって、街路樹には粉砂糖がかかり、人のまばらな朝七時。耳の奥で鈴の音は鳴り止まないままでした。

 やっとの思いで駅に辿り着くと、人もいつものようにいて、外のことなどまるで知らないようでした。指先の冷たさがじんわりと痛みとなって伝わってきました。寒さの中必死で気付かなかっただけで、息も上がっていたし、指先も冷たくなっていたのです。

 電車に乗ると外の景色も、それをクリスマスケーキみたいだと思ったことも、まるで嘘みたいで、私はかばんから本を取り出して読んでいました。電車の中は守られていて、別の世界でした。

 学校の周りは洒落た建物が並ぶ住宅街です。それらが雪で飾られたらどんなにきれいだろう。でも、見てはいけない。砂糖菓子の一つになってしまう。

学校まで走りました。聞こえるはずのない鈴の音は聞こえるはずがないのです。クリスマスにはまだ早すぎて、もう少し遅いのですから。息を切らして、指先を冷たくして、それでも校門に辿り着ければこちらの勝ちです。

 ……そのはずでした。

 一番大きくて、広い地面も木もあって、クリスマスケーキにぴったりの建物は何でしょうか。

 私は、学校だと思います。

 真っ白な雪に支配された景色に心を奪われて、私は立ち尽くしていました。指先が冷たく染まっていきました。

 「メリークリスマス。」

 それからのことは覚えていません。気がつけば教室で自分の机の前に立っていて、机の上にはプレゼントが置いてありました。

誰がこんな時にプレゼントを……。包装紙を破らないように開けると、薄桃色の手袋でした。そういえば私は手袋を持っていませんでした。指を切るような痛みもそのためです。

添えられた真っ白なカードに書かれた文字は――Santa。

――君は「悪い子」じゃないよ。ただ、君は今あるものにすごく満足しているように見えて、何をあげたらいいか最後まで決まらなくてね。だから今日は君のための雪だよ、手袋をして楽しんでおくれ――。

そんな声が聞こえているように感じたのは気のせいでしょうか。鈴の音ははじまりと同じようにいつの間にか鳴りやんでいました。

これが私の遅いクリスマスの話です。