形のない足跡

七辻雨鷹(ナナツジウタカ)。マイペースで子供っぽい人のまた別のお話。「ようこそ、カオスへ。」

七.旅人算-8732

 家族には感謝を伝えることができた。残るは咲季だ。明日は先に行くと言っていたから、咲季は恐らく八時に登校する。家から学校までは四十分かかるから、七時十分には家を出よう――しかし、「美冬」が起きたのは七時だった。美冬は低血圧で朝が苦手だったのだ。真雪はそれをすっかり忘れていた。
急いで身支度を整えてリビングに降りる。バターロールを牛乳で流し込んでリュックサックを掴んだ。
「そんなに急ぐの? あと三十分あればお弁当作るのに。」
慌てて靴を履く「美冬」を見て母は困った顔をした。
「ごめん、購買パンで済ませるから。」
財布とスマートフォンがリュックサックに入っているのを確認すると「美冬」は外に飛び出した。
 
 駅に着いて電光掲示板を見上げると「遅延4分」という赤い文字が流れていた。急ぐ時に限って電車は遅れるものだ。心なしか、ホームにはいつもより人が多い。人混みに揉まれて予定より一本遅い電車に乗り、ドアに近い吊革に掴まる。扉が閉まるまでにさらに時間がかかった。
 咲季に追いつけるだろうか。 時間はもう残されていないのだからと、そこまで考えたところで真雪の思考は立ち止まる。もし、このまま死亡時刻を迎えたら自分と姉はどうなるのだろうか。今、自分がしているように、過去は変えられるのだとしたら、自分があの横断歩道を渡らなければ姉は死なずに済むのではないだろうか。しかし、過去を変えることは許されるのだろうか。真雪が今、していることは過去を変えることに他ならない
 ぐるぐると思考を巡らせているうちに、学校の最寄りまであと一駅のところに来ていた。車掌の申し訳なさそうなアナウンスが聞こえてきて真雪は我に返った。
「当駅で急行の通過待ちをいたしますが、後続の車両、車内トラブルにて十分ほど遅れております。発車まで、今しばらくお待ちください。」
 既に時間は七時五十分を回っていた。これでは間に合わない。スマートフォンを取り出し、学校の最寄り駅まで歩いてかかる時間を検索をすると徒歩七分と出た。真雪は電車を降り、定期をかざして改札を走り抜けた。出口表示と地図とを交互に睨んでして階段を駆け上がる。
 出た先は国道沿いだった。太陽を右手に北に走る。リュックサックが揺れて背中を叩き、排気ガスが呼吸を阻む。今朝起きられなかったことで、この体が姉のものであるということはよくわかっていたが、今はそんなことに構っていられない。乱暴でも走るしかない。地面を蹴り、風が過ぎ、少しでも速くと心が急く。いつもよりいくらか体が軽く、速く走れるのも姉の体だからだろうか。
 あの横断歩道の近くに咲季の姿が見えた。しかし、このままのペースでは追いつけそうにない。それどころか、信号に阻まれれば距離はさらに開いてしまう。
 「美冬」は肺に大きく息を吸い込んだ。排気ガスが体の中で暴れるのも気にせず、叫んだ。
「咲季!」
 咲季は驚いたように立ち止まって振り返った。
「美冬……?」
「美冬」は急いで駆け寄るが、完全に息が上がってしまっていた。肩で息をする「美冬」に咲季は怪訝そうに尋ねる。
「追いかけてきてまで、どうした。」
呼吸を何とか整え、唾を飲み、リュックサックから青い花柄の封筒を取り出す。昨日の夜に散々悩みながら書いたものだ。できるだけ美冬の言葉にしようとツイートをさかのぼって言葉を拾った。
「ごめん、伝えなくちゃいけないことがあった。後で読んで。」
咲季はきょとんとしていたが、すぐに優しい表情を見せ、大事そうに手紙を受け取った。真雪は咲季がこんな表情を見せるのを初めて見た。
「わかった。必ず読むね。」
咲季のその言葉を聞くと、真雪の意識はふわりと軽くなった。