形のない足跡

七辻雨鷹(ナナツジウタカ)。マイペースで子供っぽい人のまた別のお話。「ようこそ、カオスへ。」

夜の底に深く沈む

文学部OB誌「紙+ペン=可能性」に寄稿した作品です。

BURNOUT SYNDROMESの「i am a HERO」

BURNOUT SYNDROMES ~i am a HERO~ - YouTube

から着想し、歌詞を一部引用しました(改行して下げている部分)。

 

 

 目を開けるともう夜だった。遠くから国道を走る車の音が聞こえる。あまり交通量が多くないように思えるということはもうかなり遅い時間なのだろう。私は枕元に置いた目覚まし時計を掴んだ。開けっ放しのカーテンの隙間から差し込む街灯の光に当てる。   23:38:12  私は無機質なデジタル数字の点滅を数回眺めて元の場所に置いた。腕で光を遮って目を瞑る。

 

  生憎と私は貴方のヒロインじゃあなかったよ、ヒーロー。

 

 初夏の日差しは木々に新緑の炎を灯していた。  100m走を走り抜けてクラス席に戻ってきた貴方に、私は先ほど自販機で買ってきたばかりのスポーツドリンクを突き出す。ありがとう、と短く答えて貴方はすぐにキャップを外して喉を鳴らした。ペットボトルの中の半透明の液体が陽光に照らされながら揺れていた。 「ただ今の各級団の順位を発表します‪──一位、青級。」 周囲からわあっと歓声が上がる。太陽に背を向け、彼は私の方を見てにやりと笑った。 「逆転とはやるね、流石だよ、ヒーロー。」 「まあな。俺はこれしかできない代わりに、これだけはやってやろうと思ってさ。」 そうなんだ、と返したきり言葉が尽きる。私は貴方がタオルで汗を拭うのを黙って見ていた。声援が咲き溢れたグラウンドのここにだけ空白がある。 「これ、ありがとな。助かった。」 まだ中身の半分残ったペットボトルを見せて、貴方は空白に私を残したまま喧騒に身を消した。

 まだ疲れの残る体を起こして部屋を見渡す。窓から入る街灯の光が色褪せてモノクロになった部屋の中を照らしている。酷く喉が渇いていた。冷蔵庫の中に欲しい物は無かったはずだ。既に条例では補導対象になる時間だが、コンビニに出掛けよう。私は薄手のパーカーを羽織り、小銭入れをポケットに押し込むと、家族を起こさないように外に出た。

 月の無い夜だ。街は夜の底に沈んでいる。街灯の灯りを繋ぐように五分ほど歩くと、コンビニの看板が煌々と点いているのが見えた。入り口付近にたむろする不適切な青少年(ヤンキー)を脳内で殺して店内に入る。昼間にグラウンドで聴いた曲が流れていた。少し前まで興味の無かった流行の音楽が今は少しだけ染みる。  貴方に渡したのと同じスポーツドリンクが目に付く。貴方の笑顔が脳裏に浮かぶ。あれは確かに私だけに向けられたものだった。  けれど、それを思い出したところでもう仕方が無いのだ。  わたしはホットコーヒーを掴んでレジへ向かった。淡々と会計を済ませ、レシートの数字に目をやったところで思考は内面に戻る。  明日から何を考えて生きていこうか。   生きている理由は?   死にたくないから。

 片付けを終えて、生徒の多くは下校していた。私は部活の仲間と明日の予定を話して少し遅い時間に教室へ荷物を取りに向かった。誰もいないと思っていた教室から声がしてわたしは立ち止まる。

貴方の声と、それから少し遅れて、クラスメイトのあの子の小さな声。  聴いてはいけないとその場を離れる前に、その会話は私に突き刺さった。貴方が私ではなくあの子を選んだことは確かだった。

 まあ、仕方ないよね。

 不安定に揺れる気持ちをそんな言葉で抑え込んで廊下の突き当たりのトイレに逃げ込んだ。個室の鍵を閉める。換気扇の音が煩い。こんな気持ちはわからない。人感センサー式の照明が消えるまで、いや、消えてからもしばらく私はそこにいた。

 打ち上げに行かない連絡をして、下校を促す放送の後に荷物を取りに行った。今度こそ教室には誰もいなかった。

 足早に家路を急ぐ。あの空白が私の周りにだけいつまでも存在していた。

 

 

 熱いコーヒーでわずかに喉を潤し、妙に冷えた指先を温めながら家へ帰る。来た道をただ戻る。

 

  明日になれば何かが変わる。

  そんな予感がしていた。

 

  スマートフォンに祈る。

  パスワード下四桁は変えないまま、貴方を忘れよう。

 

四月十二日。初めて貴方と話した日を、私は何度もまじないのように入力していた。それももう意味はない。

 もう終わったことなのだから、明日からはまた何もなかったかのように生きていかねばならない。明日になれば、今日だったものは勝手に終わって、過去になっていくのだ。私は玄関のドアを静かに開けた。家族は誰も気づいていないらしい。

 自室の戸を開け、手探りで壁にあるスイッチを押して照明を点けた。コーヒーを机の上に置いてベッドに横になる。枕元の目覚まし時計を手に取る。

23:59:57

23:59:58

23:59:59

 

00:00:00

 

 私は目を閉じた。そして瞼の裏の深い闇の底に身を沈めた。

 

 

 再び目が覚めたとき、目覚まし時計は三時過ぎを表示していた。

 先ほど目が覚めた時と気分は然程変わらなかった。部屋は相変わらずモノクロのままで、思い出すのは昼間のことばかりだ。日付が変わるだけで、全部過去になって終わっていくなんて、そんなことはあるはずもないのに、なぜ考えていたのだろう。

 簡単に終わって忘れられるはずなんてなかった。

 机の上のコーヒーを手に取って網戸を開ける。街は先ほどにも増して静まり返っていた。

 

  コーヒーは冷めた。

  一口で棄てよう。

 

  そのあとで泣こう。

 

 窓辺に乗り出して遠くの空港で飛行機の灯りが点滅にしながら遠ざかるのを目で追う。私が選ばれることは無いとどこかではわかっていた。

 何をしても、誰といても、浮くことがない、居て当たり前の存在である代わりに、誰も私を特別に思うことは無い。大体誰とでも話せるし、大体のことは人並みにできる。ずっとそうだ。私には特筆すべきことが何もないのかもしれない。

 

  一、二、三で私は風景。

  産まれた瞬間から

  死ぬまで脇役。

 

  だけど。

  あのね?

 

  本当は今も

  発癌性の夢を見ている。

 

 いつだって諦める理由なんか幾らでもある。けれど、全部が全部、理由があれば諦められるようなものではない。だから私は少しだけ夢を見ていた。叶わないものばかり追っていたら、いつか身を滅ぼしてしまう。そんな発癌性の夢を見ている。

 カフェインが今更聞いてきたのか、今夜はもう眠れそうにない。明日は遅刻しようと決めて、私は冷めたコーヒーを一口飲んだ。