形のない足跡

七辻雨鷹(ナナツジウタカ)。マイペースで子供っぽい人のまた別のお話。「ようこそ、カオスへ。」

八.美冬と真雪-8732

 いつの間にか真雪は美冬を見ていた。そこにいる「美冬」は真雪ではなく美冬だった。真雪は宙に浮かぶ光の玉に姿を変えていた。
「あたしもう行かなきゃならないんだけど、一緒に行く? ちょっと早いけど。」
「いや、息上がっちゃって、ゆっくり歩きたいから先行って。」
美冬は咲季の誘いを断り、彼女を見送ると、真雪の方に向き直った。
「ありがとう。死者には運命を変えることはできないから、真雪が私を追い抜くときに一度だけチャンスをくださいと神様にお願いしたんだ。ヒントを一つだけ教えて、私と妹をほんの少しの間だけ入れ替えてくださいって。私はずっと、運命を変えることができずに、ありがとうを言えずに苦しかった。でも、それもこれで終わりだ。ありがとう、真雪。」
美冬の穏やかな口調に心が安らぐ。しかし、同時に真雪は気づいてしまった。
「元に戻ってしまったら、『美冬』の中身がお姉ちゃんになったら、運命が変えられないなら、お姉ちゃんは死んじゃうんじゃないの? もしかしたら、もうしばらくわたしのままなら死なずに済むんじゃないの?」
なだめるように、美冬は静かに首を振った。
「一番大事な世界のルールは変えてはいけないんだ。神様と約束をした。」
「でも……わたしは一緒に生きたい。お姉ちゃんの人生がこんなところで終わっていいはずない。あのトラックの運転手もこんな過去もわたしはまだ許せない。神様なんかどうだっていい。」
真雪は露わになる感情を止めなかった。今までそれを覆っていた諦めに近い気持ちは可能性の前に吹き飛んでいた。過去を乗り越えた振りをしてここまで来たが、本当はまだ受け入れきれていないのだ。不安な気持ちを必死に抑えながら真雪は美冬を見つめる。
「これは私の人生だよ。何度も何度も記憶を反芻して、そのたびに後悔をしたけれど、それ以上に幸せだったんだって気づいた。ここで終わったところでそれは変わらない。色んな人のおかげで生きるに値する人生だった。それを無理に延ばそうというのは、無意味だよ。」
無意味。言葉の無機質な響きが心に重く伝う。何も言えない真雪に美冬は続ける。
「私の分の人生を生きる必要なんてない。もういいよ、好きに生きなよ。だって、私と真雪は別の人間なのだから。」
 やっと長い夢から目が覚めた気がした。真雪はずっと姉を追いかけて生きてきた。姉は憧れの存在でいつも近くにいたから。姉がいなくなってからはその足跡を辿ってきた。存在したはずの、姉の未来をこれからも辿るつもりだった。そうすれば姉がまだ近くにいてくれるような気がしていた。そうすることが、姉の分まで生きるということだと思っていた。けれど、姉と自分とは違う。
「もう時間だ、行かなきゃ。今までありがとう。」
 美冬は止める間もなく横断歩道に駆けていった。その横断歩道には暴走したトラックが近づいていた。

                  *

 真雪が次に気がついたのは、講義室の椅子の上だった。時間を確認しようとポケットからスマートフォンを取り出す。青い無地のケースは紛れもなく自分のものだ。
16:01 9月7日 金曜日
眠ってから一時間ほどが経過していた。みんな部活の方の準備に行ったのだろう、教室にはあまり人がいない。真雪はまだぼんやりとした頭で記憶を探った。信じられないようなことばかりが記憶に残っている。もしかしたら全て夢だったのかもしれない。そんなことを考えながらスマートフォンのロックを解除する。
 ホーム画面の背景になっていたのは、家族旅行で行った北海道で撮った美冬と真雪のツーショット写真だった。ラベンダー畑を背に麦わら帽子を被った二人が笑顔で寄り添っている。それは、事故で失われたはずの、そして、美冬になった真雪が自分宛てにLINEで送った写真だ。胸の奥を掴まれるような苦しさはもうなかった。
 長い夢から覚めて、髪を解くと真雪は立ち上がった。